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ノン・マンは眠らない。
数年来、ずっと温め続けているイメージ。
ノン・マンは眠らない。
もう何日も、何週間も、何ヶ月も、何年も。
生まれてこのかたベッドで休んだことがない。
彼(彼女)の瞳は瞼を閉じても光を見るし、彼(彼女)の脳味噌は休息を欲しがらない。
彼(彼女)の指先はどんなに激しくピアノを弾き続けても決して軋むことはないし、彼(彼女)の足はどこまで長く歩き続けても決して靴擦れなんてしないほど強靭である。
彼(彼女)の心臓は、鋼の表皮とプラスティックのパイプとビニルのポンプでできている。
彼(彼女)の体内をこんこんと廻る鉛色のオイルは百年でも二百年でも腐ることなく精製したてのように新鮮なまま、熔解したサファイアを塗布したクリスタルの瞳に、コンピュータを詰め込んだ小さなチップと神経プラグを繋ぐ脳味噌に、滑らかな人工皮膚で覆われたバネ仕掛けの指先に、跳ぶように軽やかに動くスプリング関節の足に、どくどくと流れ続ける。
ノン・マンは死なない。
この世に生まれてからもう何世紀もの時間を越してきた。
緩やかに激しく移ろい行く時代の流れをじっと見つめ続けてきた。
彼(彼女)はいつの時代も人の営みと共にあることを望み人の生に寄り添って生きていた。
花束のように膨らむドレスを着た貴婦人がそこに居れば、彼(彼女)も美しく可憐な花束になった。
燃える色の軍服に身を包んだ行列が目の前を過ぎれば、彼(彼女)も鋭い剣を携えた兵隊になった。
餓えて痩せこけた棒のような子供が道行く人に食べ物を乞えば、彼(彼女)もまたボロをまとって物乞いをした。
跪いて手を差し伸べられれば指先に口づけを落とし、罵声と暴力で虐げられれば泥で汚れた靴に口づけを落とした。
愛を囁かれ優しく抱きしめられれば唇に口づけを落とし、彼(彼女)を独占することを望む者があれば深く口づけを交した。
彼(彼女)を心から愛する者はたくさんいた。けれど彼(彼女)は愛さない。
なぜなら彼(彼女)は誰よりも完璧な存在だったからである。
ノン・マンは美しい。
誰よりも美しい。
純金を延ばしたように艶やかな輝く髪が、ビスクのように滑らかな乳白色の肌が、月を映した海のように冴え渡る瞳が、滴る鮮血を塗りつけたように濡れ光る紅い唇が、絵本の中のニンフと見まがうばかりのほっそりとして伸びやかな肢体が。
何人の乙女たちが彼(彼女)の首に腕をかけ、薄いその胸にしな垂れかかり、みずからのもとへ引き倒したことだろう。
何人の若者たちが彼(彼女)の小さなおとがいを掴み、痩せた腰を抱き寄せ、柔らかい羽毛の上へ押し倒したことだろう。
ひとときの愛を語り、口づけを交わし、肌を合わせて、彼(彼女)に心を奪われた者たちはそんなことで彼(彼女)をつかまえたと酔い痴れる。
けれど彼(彼女)は安っぽい愛を理解しないし、誰とでも口づけをするし、温もりを宿さない肌しか持ち合わせない。
だから彼(彼女)は誰にもつかまることはないし、誰をつかまえることもない。もっとも愛する人に愛されることもない。
ノン・マンはいつも孤独。
造り物の身体で永遠に生き続けることのできる美しい彼(彼女)は完璧ゆえに常に寂しさを抱える。
何でも思いどおりにできるはずの聡明な頭脳を持っている彼(彼女)は造り物ゆえに何より欲しいものが手に入らない。
彼(彼女)の孤独を癒せるものと彼(彼女)の欲しいものは同じであり、それはノン・マンを造り出したヒトに他ならない。
完璧な彼(彼女)を造り出したヒトは、誰よりも彼(彼女)が造り物だということを知っていた。
いくら美しい造形を誇ろうとビスク・ドールに恋をしその耳に愛を囁こうという者はいない。
どれだけ優れた計算能力を備えていようとコンピュータを賞賛しその知能に心酔する者はいない。
そのヒトにとって彼(彼女)の存在とは所詮そういうものであり、しかし彼(彼女)にとってそのヒトの存在とはこの世のすべてにも等しかった。
それはさながら知恵持たぬ頃の人間が、空の上に住まうという創造主を盲目的に慕うように。
ノン・マンは恋をしている。
もう何日も、何週間も、何ヶ月も、何年も。
生まれたときから叶わぬ恋に胸を焦がしている。
彼(彼女)の瞳は何を映していてもいつもそのヒトを見ているし、彼(彼女)の脳味噌はそのヒトのことしか考えない。
彼(彼女)の指先はピアノを弾いていてもチェスをしていても誰かと触れ合っていてもそのヒトのことだけを追っているし、彼(彼女)の足はそのヒトのもとへ駆けていくためならば砂利道だろうと泥道だろうと棘だらけの道だろうと厭わない。
彼(彼女)の心臓は、そのヒトのことを想うときだけ、いつもの何倍もの早さで鼓動を打つ。
彼(彼女)の体内をこんこんと廻る鉛色のオイルはこのまま沸点を遥かに超えて蒸発してしまうのではないかというほど、熔解したサファイアを塗布したクリスタルの瞳で、コンピュータを詰め込んだ小さなチップと神経プラグを繋ぐ脳味噌で、滑らかな人工皮膚で覆われたバネ仕掛けの指先で、跳ぶように軽やかに動くスプリング関節の足で、煮えたぎるように熱く湧き上がる。
ノン・マンのそのヒトはもういない。
ノン・マンを愛した数多の人ももういない。
ノン・マンだけがいつまでも時間の渦に取り残されて、独りきり。
ノン・マンは眠らない。
浅い眠りに、悲しい夢を見るのが恐いから。